WWWとHTMLについて
2022.01.07
明けましておめでとうございます。スズキサトシです。
半年以上前のテキストにて、生HTMLにしている理由に言及していたので、今日はその話を書いておこうと思う。
僕がWebに初めて触れてから既に20年以上が経過していて想うのが、Webにおける文脈の問題だ。
たとえば、Twitterの「いいね」は昔はFavoriteで、ハートではなくスターだった。これらが同じ意味だと感じる人はそう多くないだろう。
昨今のSNSやブログサービスでは、僕らが書いた記事はDBに抽象化されたデータ構造として保存されるので、その表示形式はサービスの変化や成長によって変化する。
したがって、当時そのサイトを見ていた人にとっての体験と、今それを見た人にとっての体験が大幅に異なる可能性もある。
もちろん書籍や映像メディアでも、大なり小なりこういうことはあるのだが、メディア(或いはパッケージ)の堅牢性とでも言うべきものがWeb、特に外部サービスに依存している場合は弱いようだ。
VRChat上でとある方と話した時にも、デジタルデータって脆いよね、という話をしていた。ジオシティーズのサービス終了で数々の歴史あるWebサイトが閉鎖したように。
この件で言うなれば、ジオシティーズがなくなっても、Internet wayback machine上に残っているアーカイブを見れば案外そのまま残っていて、閲覧自体はある程度可能だったりする。
ところが、先に言及したようなサービス自体の変化の場合、多くのユーザーは改変された後の画面で読むことになる。
個人的には、もしかするとこれは、なくなるよりも悪いのではないか?とさえ感じる。10年以上も前の発言やインタビューを掘り起こされてネット炎上する事象がそれだ。
改変の他の具体例を挙げると、例えばシェアボタンの追加がそれにあたる。
もちろんWeb上の記事を能動的にシェアしていただくのは本来のURIの理念通りだし、好ましいことだ。
しかし、それを著者側やWebサービス提供側から促した時点で、その微妙な意味合いというのが変わってくる。
呼び込みをしている店に入ってみたら無愛想だったらどう感じるか、もし同じ店に自ら暖簾をくぐって入ったらどう感じただろうか。という例えが近いように思う。
UIというのは案外繊細なもので、僕らは意識していないさまざまな知覚の印象や観念からこそ多くの影響を受ける。
この問題はWordPressやMovableTypeでセルフホスティングしている場合でも例外ではなく、テーマ切り替えをすれば過去の記事も全て変更されてしまう。
一見すると統一されていていいようだけれど、僕はこの文章を「この画面デザインで読む」ことを想定して書いているから、もしかすると未来の自分が行った改変によって、重要なニュアンスが失われるかもしれない。
それは書き記した言葉が多ければ多いほど、例え自分であろうと、管理するのは不可能になる。
そういった事情を勘案してみると、シンプルなHTMLで済ませてしまうことにも利点があり、僕自身HTMLを書くのには慣れているから、むしろこの方がしっくりくる。
近年はこういった「お気持ち表明」は、Twitterで行った方が多くの人に読まれ、広まるということは僕もよく理解しているのだけれど、結局はむしろ誤解を招くのではないか?ということを最近はとみに感じている。
これがまとまったアイディアはまとまった文章量で自分のサイトで公開しようと思ったきっかけだった。
なるべく誤解されないようにしたい、という観点が、超シンプルな現状のデザインと、HTML直打ちということに繋がっている。